複業エンジニアとして2件目、3件目の案件を受けようとした時、ふと不安になった経験はないでしょうか。「このクライアント、今の取引先と競合するかも」「NDAがあるのに同じ業界の案件を受けていいのか」——契約書を読み返してみたものの、どこまでが禁止されているのか判断がつかない。そんな状況に直面したエンジニアは少なくありません。
フリーランス白書2025(一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会)によると、フリーランスとして複数社と取引する働き方は一般的です。一方で、複業エンジニアが複数案件を掛け持ちする際、競業避止条項やNDAの制約がどのように影響するかを正確に理解している人は多くありません。
法的リスクの怖さは「何がOKで何がNGかわからない」という不確かさから生まれます。本記事では、競業避止・NDA・情報漏洩の3大リスクを具体的な状況に当てはめて解説し、複数案件を安全に掛け持ちするための判断基準と実践的なチェックリストを提供します。
リスクは「知らなかった」から「理解した上でコントロールできる」状態に変えることができます。正しい知識を持てば、複数案件の掛け持ちは怖いものではありません。
複数案件掛け持ちで問題になる3つのリスク

複業エンジニアが複数案件を同時に稼働させる際、問題になりやすいリスクは大きく3つあります。それぞれの性質・発生場面・影響の大きさを整理しておくことが、安全な掛け持ちの第一歩です。
競業避止条項違反
競業避止条項とは、「契約期間中(あるいは契約終了後一定期間)、クライアントの競合他社との取引を禁止する」と定めた条項です。業務委託契約書に含まれていることが多く、フリーランスエンジニアにも適用されます。
競業避止条項に違反した場合、契約解除・損害賠償請求・違約金の支払いが発生するリスクがあります。特に「競合他社の定義」が広く書かれている契約書では、新規案件を受けた時点で既存クライアントへの違反になる可能性があります。
NDA(秘密保持契約)違反
NDA(秘密保持契約)に違反するリスクは、意外なほど日常の業務動作に潜んでいます。競合するクライアントを掛け持ちする場合、一方のクライアントから得た情報を他方の案件で活用してしまうケースが代表的です。
NDA違反には民事損害賠償(数百万円〜数千万円に及ぶケースもあります)のほか、悪質な場合は不正競争防止法による刑事責任を問われることもあります(不正競争防止法 第21条)。
情報漏洩・目的外利用リスク
3つ目は、意図せず発生してしまう情報漏洩・目的外利用のリスクです。複数案件を並行していると、「このクライアントで得た知見を別の案件に活かす」という行為が自然に起きやすくなります。
クライアント固有の情報(未公開の事業計画、顧客データ、独自のアルゴリズムなど)を別の案件で使用することは、NDA違反に該当します。また、同じ作業PC・クラウドストレージを複数案件で共用することで、ファイルの誤共有が起きるリスクもあります。
競業避止条項の典型パターンと「どこまでが禁止か」の解釈
実際の契約書にはさまざまな競業避止条項のパターンが存在します。自分の契約書がどのタイプか把握することが、新規案件を受ける際の最初の判断ステップです。
典型パターン①「同業他社との契約禁止」
最もよく見られるパターンが、「甲(クライアント)の競合他社と業務委託契約を締結してはならない」という条項です。ここで問題になるのが「競合他社」の定義です。
条項例:「本契約の有効期間中、乙は甲と同一または類似のサービスを提供する事業者との業務委託契約を締結してはならない」
この場合、「類似のサービス」の解釈が曖昧です。ECサイト開発を受けているクライアントA社の「競合他社」が、同じくEC事業を運営するB社なのか、Web開発全般なのかによって、受けられる案件の範囲が大きく変わります。
判断基準: 曖昧な表現は「自分が受けようとしている案件がどの程度競合するか」をクライアントに確認する必要があります。確認なく受注した場合、後から「競合に当たる」と判断されるリスクがあります。
典型パターン②「契約期間中の競合業務禁止」
「契約期間中、甲の事業と競合する業務を行ってはならない」という形で、期間を契約期間に限定しているパターンです。契約終了後は制限がないため、在籍中の制限として比較的合理性があります。
判断基準: 「競合業務」の定義が明確かどうかを確認します。「同種の技術を使う開発全般」のような広すぎる定義は、交渉の余地があります。
曖昧条文の判断基準(競業避止の有効要件)
競業避止義務が法的に有効かどうかは、以下の6要素で判断されます(経済産業省・競業避止義務契約の有効性に関する参考資料):
- 守るべき正当な利益の存在: クライアント側に保護すべき営業秘密・顧客情報が存在するか
- 在籍中の地位・役割の重要性: 機密情報にどの程度アクセスできる立場だったか
- 地域的な限定: 制限エリアが合理的かどうか(デジタル案件では地域制限は実質無意味)
- 期間の合理性: 1年以内は肯定的に判断されやすく、2年以上は否定的な裁判例も多い
- 禁止行為の範囲の明確性: 何が禁止されているかが具体的に定義されているか
- 代償措置の有無: 競業避止に見合った報酬増額・慰謝料相当の補償があるか
フリーランスの場合、代償措置なしで過度に広い競業避止義務を課すことは、独占禁止法上の「優越的地位の濫用」に該当する可能性があります(公正取引委員会 フリーランスガイドライン)。
競業避止が無効になるケース
以下のようなケースでは、競業避止条項が無効(あるいは交渉で削除可能)と判断されやすいです:
- 「退職後3年間、同業他社での業務禁止」など期間が極めて長い
- 「IT業界全般との取引禁止」など範囲が著しく広い
- 代償措置がまったくない(一般的な報酬のみ)
- クライアントとの交渉機会なしに一方的に押しつけられた条項
不当な制限と判断できる場合は、「この条項の削除をお願いしたい」と書面で申し入れることが法的に保護されます。
NDA違反になるケース・ならないケース(具体例)
「同業他社の案件を受けたら自動的にNDA違反になるのか?」という疑問を持つエンジニアは多いです。答えは「案件を受けること自体はNDA違反ではない」です。問題になるのは「何をするか」です。
NDA違反になる行為の具体例
ケース1: 顧客データの転用 クライアントA社(人材系サービス)から取得した求職者の行動データパターンを分析した上で、その知見をクライアントB社(同業の人材系サービス)の提案に使用した。
→ 違反。A社から秘密情報として提供された分析知見をB社での目的外に利用しています。
ケース2: 未公開機能の情報漏洩 A社案件で開発中の未公開機能の仕様を、B社との雑談の中で「技術的に面白いですよ」と話してしまった。
→ 違反。未公開の仕様・ビジネス情報は典型的な秘密情報に該当します。
ケース3: コードの流用 A社向けに書いたカスタムアルゴリズムのコードをB社案件にそのままコピーして使用した。
→ 違反の可能性が高い。契約によってはA社が著作権・所有権を持つコードをB社に提供したことになります。
NDA違反にならない行為(汎用技術スキルの活用)
ケース4: 技術スキルの活用 A社案件で学んだReact 18の新機能の使い方を、B社案件でも活用した。
→ 違反ではない。公開情報から得た技術的スキルは個人の能力として活用できます。
ケース5: 業界動向の活用 A社案件で把握した「この業界ではAPI連携が主流になってきている」という公開情報ベースの動向認識をB社案件での提案に活かした。
→ 違反ではない。公開情報から形成された一般的な業界動向の認識は秘密情報に該当しません。
ケース6: 過去の経験の活用 以前の案件で培ったマイクロサービス設計の経験をもとに、別案件のアーキテクチャ提案を行った。
→ 違反ではない。エンジニアとして蓄積した個人のスキル・経験は秘密情報ではありません。
グレーゾーンの判断基準
判断が難しいグレーゾーンには「情報の出所」で切り分ける方法が有効です。
情報の出所 | 判断 |
|---|---|
クライアントから秘密情報として提供されたもの | NDA対象。他案件への転用禁止 |
自分が公開情報から独自に調査・分析したもの | 個人の知見。活用可能 |
業界の常識・公開されている技術情報 | 秘密情報ではない。活用可能 |
判断がつかないもの | クライアントに確認するか、使用しない |
不確かな場合は「使わない」を原則にすることが最も安全です。
複数案件を安全に掛け持ちするための事前確認チェックリスト

新規案件を受ける前に、以下のチェックを行うことで法的リスクを大幅に低減できます。
既存契約書の確認項目
まず、現在稼働中のすべてのクライアントとの契約書を確認します。
- 競業避止条項の有無・対象範囲・期間を確認した
- NDAで定義されている「秘密情報」の範囲を確認した
- 「同業他社」「競合他社」の定義が明記されているか確認した
- 情報管理義務(使用デバイス・ストレージの制限など)を確認した
- 掛け持ち案件に関する報告・開示義務の有無を確認した
新規案件受託前の競合判定フロー
次の3軸で既存クライアントと新規案件の競合度を確認します。
判定軸1: 業種・ビジネス領域
- 既存クライアントと新規クライアントの主要事業領域が重複するか?
- 「競合他社」に該当する可能性がある場合、既存クライアントに事前確認する
判定軸2: 業務内容・担当技術
- 同一のシステム・機能を両クライアントに対して提供しないか?
- 一方の案件で得た知見・成果物をそのまま転用しないか?
判定軸3: 対象顧客・市場
- 既存クライアントと新規クライアントが同じ顧客層を奪い合う関係にあるか?
いずれかで「競合の可能性あり」と判断した場合は、既存クライアントに「新しい案件を受けることへの了承」を事前に取ることが最善です。
情報管理体制のセルフチェック
複数案件を掛け持ちする場合、情報の混在を防ぐ管理体制が必須です。
- 案件ごとに作業フォルダ・ストレージ領域を分けている
- クライアント情報を含むファイルを個人用クラウドに保存していない
- 画面共有・リモート会議時に他案件の資料が見えない状態にしている
- 案件関連のやり取りは専用メールアドレス(または仕事用アドレス)で行っている
- コードリポジトリはクライアントごとに分けている
フリーランス新法による競業避止条項の制限(2026年版)
2024年11月1日に「特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律」(通称:フリーランス新法)が施行されました。この法律はフリーランスと発注事業者の取引を適正化するための法律で、競業避止義務との関係でいくつかの重要なポイントがあります。
フリーランス新法の概要と競業避止への影響
フリーランス新法は、発注事業者がフリーランスに対して不当な条件を押しつけることを禁止しています。競業避止義務については直接的な規制条文はありませんが、公正取引委員会の指針と組み合わせることで、フリーランス側の権利が強化されています(フリーランス新法特設サイト | 公正取引委員会)。
公正取引委員会ガイドラインが示す「合理的範囲」の基準
2024年10月に公正取引委員会が公表したガイドラインでは、次の場合は独占禁止法(優越的地位の濫用)上問題になると明示されています:
- 合理的に必要な範囲を超えた競業避止義務を課す場合: 発注者の市場シェアや交渉力上の優位性を背景に、フリーランスが受け入れざるを得ない状況で過度な制限を課すこと
- 代償措置がない場合: 収入の機会を大きく制限するにもかかわらず、何の補償も設けない条項
この指針は、フリーランスが「この条項は過度な制限です」と交渉する法的根拠になります。
不当な競業避止条項への対応(交渉のポイント)
不当と思われる競業避止条項に対しては、次のような交渉が可能です:
交渉ポイント1: 対象範囲の限定 「競合他社」の定義を具体的な企業名・事業領域に限定するよう求める。「同業他社全般」のような曖昧な表現は「直接競合する○社」に絞るよう交渉します。
交渉ポイント2: 期間の合理化 契約期間終了後の制限を求める場合、6ヶ月〜1年以内に短縮するよう求める。2年以上は裁判例でも否定的に判断されることが多いです。
交渉ポイント3: 代償措置の要求 競業避止義務を負うことへの対価として、追加報酬や補償金の設定を求めることは正当な交渉です。
交渉結果は書面(メール)で残すことが重要です。口頭での合意は後から覆されるリスクがあります。
万が一問題が発生した時の対応フロー

事前対策を取っていても、意図せず競業避止・NDA違反を指摘されることがあります。そうした場合の初動が問題を大きくするか小さくするかを左右します。
指摘を受けた場合の初動(3ステップ)
ステップ1: 事実確認 指摘を受けたらまず冷静に「どの行為が、どの条項に違反するとされているか」を具体的に確認します。感情的な否定や認め過ぎは避け、「確認します」と伝えて時間を取りましょう。
ステップ2: 弁護士への相談 自己判断で対応するのではなく、早急にフリーランス・契約問題に詳しい弁護士(または弁護士費用保険)に相談します。相談段階では法的に何も認めていません。
ステップ3: 当事者間での協議 弁護士のアドバイスをもとに、クライアントと誠実に協議を行います。「違反の有無」「損害の程度」「解決方法」を冷静に検討します。
問題を未然に防ぐ記録管理の習慣
トラブルになった際に有効な記録を日常から蓄積しておくことが重要です。
- メール・チャットでのやり取りは削除せず保管する
- 作業ログ(どの日時に何の作業をしたか)を記録する
- クライアントからの情報提供は「○月○日に受領した資料に含まれていた情報」と記録する
- 「クライアントに掛け持ちを了承してもらった」事実はメールで残す
相談窓口一覧
無料で相談できる公的機関を活用しましょう:
- フリーランス・トラブル110番: 厚生労働省委託・第二東京弁護士会が運営。フリーランスの法的トラブルに専門的に対応(https://freelance110.mhlw.go.jp/)
- 公正取引委員会 相談窓口: 独占禁止法・フリーランス新法に関する相談(https://www.jftc.go.jp/)
- 都道府県労働局: フリーランス新法に基づく申告・相談
まとめ:複数案件掛け持ちの安全管理チェックリスト
本記事では、複業エンジニアが複数案件を掛け持ちする際の3大リスク(競業避止・NDA・情報漏洩)と、安全に稼働するための対策を解説しました。
今すぐできる3つのアクション
- 現在稼働中の全契約書を確認する: 競業避止条項・NDAの範囲を把握する
- 情報管理体制を整える: 案件ごとのフォルダ分離・デバイス管理の徹底
- 新規案件受託前に競合判定を行う: 業種・業務内容・対象顧客の3軸で確認する
複数案件掛け持ちの安全管理チェックリスト
契約確認
- 既存クライアント全社の競業避止条項の対象範囲・期間を把握した
- 各NDAで「秘密情報」として定義されている範囲を把握した
- 過度に広い競業避止条項は交渉・見直しを検討した
- 新規案件の受託前に既存クライアントへの了承確認が必要かを判断した
情報管理
- 案件ごとに作業環境(フォルダ・ストレージ)を分離している
- クライアント固有の情報を他案件に転用していない
- 作業ログ・やり取り記録を保管している
法的知識
- 競業避止義務の有効要件(6要素)を理解した
- NDA違反になる行為・ならない行為の判断基準(情報の出所)を把握した
- フリーランス新法・公正取引委員会ガイドラインによる自分の権利を理解した
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